ユニオン・パシフィック 3

一般にいわれているほど移民であったり、貧民であったりしたわけではなかったということはいえるでしょう。


しかし、それにしても、アメリカ人は一般にこうしたセルフ・メイド・マンのタイプが好きであり、少年時から彼らを心の中に鑑として描き続けていたのです。


当時新聞ばかりでなく、19世紀の終わりごろになると大衆雑誌が続々と発刊されました。


そのなかでもフランク・マンシーの『マンシーズ』や『アーゴシー』は有名でした。


『アーゴシー』は1882年に発行され、とくに『マンシーズ』は1893年に25セントから10セントに値下げして一躍世界第一の大衆誌となりました。


この2誌に連載して大当たりをとったのが、『バイオリンのフィル』とか『ぼろのディック』とか『マッチ売りのマーク』といった、ホレイシオ・アルジャーの立身出世物語でした。


アルジャーはこうした類の小説を100以上書きまくったのですが、これはのちに単行本になり、合わせて2億5000万部というベストセラーとなりました。

ユニオン・パシフィック 2

もちろん、現在の企業に対し、要求されている社会的責任や企業倫理や一般の道徳的規準で、当時の企業家の行動や倫理を単純に評価したり批判したりすることはできません。


しかし、当時のアメリカ鉄道界に君臨していた泥棒貴族の道徳観は、社会的責任など問われなかった当時としても最低であったにちがいありません。


あこがれの的セルフ・メイド・マンこれら鉄道事業家たちの多くは徒手空拳で貧から身を起こした成金であり、当時の出世のパターンでした。


ニューヨーク・セントラルの鉄道王バンダービルトにしても、それに立ち向かった3人組、ドルー、グールド、フィスクにしても・・・


また、グレート・ノーザンのヒル、セントラル・パシフィックの4人組のハンティントン、スタンフォード、クロッカー、ホプキンスなどは、いずれもこのパターンで成り上がった成功者でした。


これに対し、のちの経営史家トマス・C・コクランは1845年から90年まで鉄道に関係した61人の事業家について調査した結果、その3分の2から10分の9までは中産階級の出身であり、そのうち51人は東北部生まれ、21人は大学、大部分は高校卒であったことを明らかにしています。

犬の食事について 2

健康維持はまず食事が基本。


犬に合った量、与えかたを工夫してください。


成長に合った回数を生後間もない子犬はよく下痢をすることがあります。


その多くは食事の与え過ぎが原因。


消化器官が発達しているとはいえ、子犬はまだ胃や腸などの消化器官が小さく、消化力も弱いからです。


むやみに与え過ぎるとトラブルのもとですから、ちょうどよい食事の回数や量を知っておきましょう。


生後3カ月までの子犬は1回の与える量を少なくするのがポイント。


そのかわり回数を多くしてやります。


無駄吠え防止すると共に、こうしたことをしっかりと守ってあげましょう。

犬の食事について

犬は元来、獲物を捕らえ食べていた肉食獣でした。


その証拠に、歯やあご、消化器官が発達し、肉を丸呑みしても一気に消化するほどの大きな胃袋を持っています。


・・・とはいえ、犬に肉さえ与えていればよいかというとそうではありません。


人間と同じように、たんぱく質、脂肪、炭水化物の三大栄養素にビタミン、ミネラルは欠かすことができません。


特に発育期の子犬には、バランスのとれた食事が必要です。


しかし、犬は短期間に成長するので、各栄養素の摂取量は人間とはかなり違ってきます。


まず犬の1日の必要な栄養量をよく知ること。


よく食べるからといって同じものを食べさせることは偏食を招き、肥満などさまざまな病気の引き金になります。


無駄吠え防止をすると共に、こうしたことに気をつけてあげましょう。

お墓の管理料と仏壇 2

永代使用料を無料にする寺院もたまに見受けますが・・・


それは檀信徒を増やすとか布教の一環として行なわれるものですね。


従来の宗派は問わなくても、墓地使用者はそこの檀信徒になることを義務づけられ、入檀料として10万円前後の冥加金を納めるところが多いようです。


・・・しかしこの際も、年間の管理料を納めることには変わりありません。


くわしいことは、直接訊ねてみるとよいでしょう。


家に創価学会 仏壇があるという方なら、このような話はきっとご存知でしょう。


さて、墓地造成の費用も、墓地の大きさや墓石の材質、大きさ、加工の度合いによって異なりますが、付帯工事費を含めて2、30万円から2、300万円くらいかかります。


くわしいことは、予算に合わせて菩提寺や管理事務所の紹介などをえて、信用ある石材店を選び相談されるとよいでしょう。


お墓の管理料と仏壇

墓地が遠隔地の場合にも、そこまで菩提寺の僧侶に来ていただくとよいでしょう。


その折、開眼供養料として、墓地造成にかかった費用の1割前後を納めるのがふつうのようです。


創価学会 仏壇などをお持ちの方は、このような話に興味があるのではないでしょうか。


さて、墓地を求めてからも、永代使用料とは別に「管理料」を支払わなければなりません。


これは、墓地内の道路や水道、休憩所、管理事務所などの設備の清掃、管理維持にあてられるもので、墓地使用者は使用権を有するかぎり毎年支払わなければなりません。


滞納しますと使用権を取り消され、墓石の撤去を求められますから注意しましょう。


管理料の額も一定していませんが、1㎡あたり年額500円から2000円くらいかかります。


寺院によってはこの管理料金を定めず任意の「付け届け」や「志」ですますところもあります。


英文ライターでも

それはさておき、英語を話すことを低くみる英文ライターには、それほど力があるのか。

そこにも、思い込みがあるように思えてならない。

英語がまともに書ける日本人がいないとこぼしている外国人によく会うが、私に言わせると、文法というより英語そのもののリズムが欠けているからだろう。

英語そのもののリズムは、自然のリズムの英語を読み、聴くことによって得られるわけで、書くことのみに専念していては、身につかないのだ。

書かれた英文を読めば、その人の力が一目瞭然である。

話された英語を聴いている限りわからないが、いったん、書かれた英語を読むと、その人の英語力のみならず、学習方法、性格(いいかげんな性格か、責任感があるか)、そして、話をしている間ではつかめない気質などが、手に取るようにわかる。

通販サイトでソファー ベッドなどの説明を読んでいても分かるほどだ。

英語を書くということは、それは恐ろしいことなのだ。

だが、それだけに、英語を書くことの楽しさが増幅されることも、多々ある。

ユニオン・パシフィック

「クレディ・モビリエ」事件としてアメリカ史上でも有名な汚職事件も、初めて大陸を横断したユニオン・パシフィック鉄道に絡むものでした。


ネブラスカ州オマハに発し、ロッキi山脈に向けて西進したユニオン・パシフィックは、カリフォルニアのサクラメントから東に向かってシエラネバダの急峻をこえるセントラル・パシフィック鉄道と、1869年5月10日、ユタ州ソルトレーク・シティ郊外のプロモントンで結合しました。


歴史的な黄金のスパイクが枕木に打ちこまれたのです。


この快挙はアメリカ国民からの熱狂的な声援を受けたのですが、この鉄道もワシントンの政界を巻きこむ犯罪によって深く蝕まれていたのです。


このような腐敗は多かれ少なかれ、当時の鉄道建設にはつきものでした。


たとえばユニオン・パシフィックとともに、最初の大陸横断で太平洋岸から工事を進めていたセントラル・パシフィックも、似たり寄ったりでした。

嫁たちの解放運動 4

その後に続く高度経済成長政策は、村の様相を大きく変えてゆくわけです。


その中に出稼ぎ問題があります。


私が出稼ぎ問題に取り組むようになった動機は2つあります。


一つは、公民館長をやっていたときに嫁さんたちの会合による部落座談会に出席しました。


そのときの話ですが、東京に出稼ぎに行った若い人が事故に会って死んで帰る。


事故死したその人に会社から送られた香典はたった5千円だったんです。


遺体も全部こちらの費用で迎えに行き、一際の費用は自己負担であった。


一人の若者が事故死したのにこれでいいだろうかという話があった。


雇用側の責任は何もないものでしょうか、そんな意味の訴えを聞きました。


また、母ちゃんたちの話では、郵便配達が来る時間になると落ち着いて仕事ができない、父ちゃんから何か便りがないかと玄関の前に立っている、と。


電話のないそのころ、郵便を待つ母ちゃんたちの心配する気持ちがよくわかる。


夜になると眠れない。


柱時計が12時を打つまで眠れないという淋しい話が伝えられた。


それで、私は出稼ぎとは一体何だろうか調べてみたい、という気持ちがおきてきたわけです。

嫁たちの解放運動 3

次に私は次、三男の問題を経験することになります。


次、三男は、昭和30年ころ、村の中に潜在失業のかたちで本当にウヨウヨしていました。


ムコ、養子になる口を探すには宝クジに当たるよりもまだ難しいと言われたほどでした。


公民館で次、三男の人たちの会をつくったのは、この人たちの就職口を探す運動でした。


当時、次、三男たちの悩みは深く、笑い顔を見ることもできないし、下ばかり向いて、気力がないと言われていた。


その下ばかり向いている人たちが会をつくると、同じ悩みをかかえる仲間が集まるようになると、自分一人だけでない、手を結んで自活の道を拓こう、と自覚が高まり、活発になり成長するわけです。


昭和34年に結成された次、三男会は、池田内閣の所得倍増政策がはじまり、工業関係の求人が急増して次、三男たちに就職口があちらこちらから迎えにくるようになり、村の中に次、三男がいなくなり3年後に解散してしまいます。


そのころから農村では逆に人手不足になり、急激な大きな変化が出てくるわけです。